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 優香は、何か異常を感じて家に戻っていて起きて待っていた。優香は、章子を抱きしめて背中を指すってくれた。その晩は、優香は両親の部屋で章子と眠りについた。

 何とかして、いつも以上にキチンと生活しようと心掛けたが、朝目覚める瞬間に不安に苛まれる。夜なかなか寝つけない日が続いた。

 でも、それが嬉しい気もした。何故ならそれだけ、健一の必要性が身を持って分かったからだ。それに、優香に結婚を考えている恋人がいることを聞き、心配した龍一も東京から戻り、何泊か泊っていった。子供達が小さかった時以来久しぶりの交流が出来た。
 これが、幸せだと思った。どんな風に仕事をしていたのか、記憶がなかった。

 つや子の亭主の有森から電話が来た。いつまで経ってもつや子が帰らないので、そちらに何か連絡がいってないか?と言う内容だった。
 章子は何も聞いていなかったが、有森が驚いた事を言った。つや子の今度の相手は、尾崎栄だったということだ。
 彼は、すでに亡くなっている。コリノが見せた新聞の切り抜きの記事に出ていた内容は、生涯独身の彼は、突然自宅で倒れたが、ヘルパーが見つけて救急車を呼んだがその中で息を引き取ったと出ていたが、つや子が出掛けたのはその後になる?どういうことだろうか?
 しかし、有森の息子は、つや子を軽井沢の先まで送っていっている。嬬恋の道の端で写生をしていた尾崎栄を車に乗せて、二人を浅間の鬼押し出しで降ろし、あとは、散策してからタクシーで出掛けるからと帰された。息子は、はっきりと二人の姿を見ているのだ。章子は、何か連絡があったら、すぐ知らせますと伝え仕事に向かった。

 冷静を保とうとしていたが、心臓が飛び出しそうにざわざわしていた。
 早く、果林と斉木に会って確かめないと。
 おかげで健一の事を少し隅に置いておける感謝の気持ちが込み上げてきた。心配と安堵と不安を抱えて、桜吹雪の中で身体は宙に浮き、奥の方へと吸い込まれて行く快感に電気が走り、手のひらと足先がビリビリと痺れた。

 果林は、全て分かっていた。斉木も以外に冷静だった。仕事が終わり次第アトリエに集まる事にした。

 気持ちも落ち着いたので、昼食を取っている時に社長にも健一が家を出た事を話した。自分も離婚しているからなのか、好意的な態度で章子も救われた。それを口実に少し早く上がる事にした。
 社長は、ダボとラボに順番に、自分の食べかけのヨーグルトを舐めさせながら、あなたも家の中で犬を飼うといいわ。と顔も見ずに言った。今までは、家の中が毛だらけになりそうだとか、カーテンがかじられると躊躇していたが、初めて前向きに考えて見ようと思った。

 千分の一セントラルパークを味わう気持ちも無く、さっさと歩いたが、木々は、大きく揺れて「頑張れ!」と背中を押してくれた。

 アトリエには、コリノがいた。斉木から連絡があったらしい。裁して言葉を交わさないうちに、次々と斉木と果林がやってきた。
 二人とも普段はマイペースで回りが忙しそうにしていても、我関せずでのん気そうにも見えたが、事件が起きた時の刑事のように動作が機敏になっていた。斉木は、羽織っていたカーキ色の膝下まであるスプリングコートを脱ぎ捨て、小学校で使っていた古い机をいくつも繋げて大きなテーブルのようにした。優秀な助手コリノが、すかさず木綿の白い布をテーブルクロスにして広げた。

 傍でじっと瞑想をしていた果林が、持ってきた地図を広げて、薄目をして手のひらで地図の上を探った。しばらくすると、「ここら辺りから感じるわ」果林の手のひらが止まった辺りは、軽井沢の手前の横川だった。全員が立ったまま上から地図を見下ろした。果林の示した場所は等高線がバームクーヘンの渦のようになっている。住宅らしき物も見当たらない、森か林か?誰一人一言も喋らなかった。

                                     -つづくー
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突然、事件が起こった。健一が置手紙一つ残して家を出て行ってしまったのだ。何の相談も無く仕事も辞めていた。章子は、現実を突き付けられた。
何も考えられない時間だけが過ぎていった。離婚しようかと思った時もあったのだから考えられないことでもないのに、やはり、有り得ない出来事で錯乱した。
打ち合わせたように、優香も帰ってこない。誰にも言えず娘だけが頼りに思えた。半狂乱になって優香にメールを送り続けるが返事は来ないまま夜が明けた。

それ以上何も行動するすべがなかった。仕事を休み何故かバスタブにお湯を入れた。戸棚をゴソゴソかき回して入浴剤を探したが見つからなかった。上半身ははだかのまま二階の部屋からマジョラムのエッセンシャルオイルを取ってきた。それを瓶ごと入れたい気分だ。頭まで湯船につけた。

 長い間の鬱積が爆発したように、ゴウゴウと唸るように泣き叫んだ。ずっと、見ない振りして無い事にして生きてきて、出て行くのだったら自分の方ではないか!皆いなくなって一人取り残された。誰の事も見ていなかったし、気持ちを理解し歩みよる事もしなかった。同じ家に寝起きしていて、交じり会う交差点の無い違う空間に生かされている家族だったと、見せ付けられ思い知らされた。母親の体内に戻りたい本能が湯船の中に章子の身体を引きずり込んだまま離そうとしなかった。

 はだかのままバスローブを着て、龍一の携帯を鳴らしたが、すぐ留守電になってしまい、何も言わず切った。つや子に言いたくなかったが、章子の残された手持ちのカードはたった一枚、何を言われてもいいからどうしたらいいのか聞いてみよう。

 何回もつや子のナンバーを押そうとするのに、指も身体も動かない。どのくらい時間が経ったのか、気がつくと薄暗い部屋になっていた。

「あぁ、映画観に行こう。」章子は一番良い思い付きではないか。動けない身体が脱ぎ散らかした服を着て、映画館に向かう。何処をどう運転したか意識がないが映画館に辿り着いた。2階建てでいくつもスクリーンのある新しく綺麗な建物で、すぐに観られる映画の券を買い、慌てて席について辺りを見回すと章子の他は一人、サラリーマン風の男が一番上の真中にいた。このまま二人きりで映画が始まるなんて、暗くなると急に怖くなってきて、襲われる程若くはないが、物取りもいるし不安になって、映画館で家族の事、健一とこれからどうしたいか整理したかったが、映画が終わるまで待てずつや子の家へ向かった。

 章子の分身のアウディは、つや子の家に行く道順を覚えている、空間を縫うように運んでくれた。桜の花びらが群青色の空に舞っている。路に散った花びらは風でまた空に舞いあがる。ぐるぐる回る花びらの輪の中を進んで行く先に待っている未来は、明るいものであって欲しいし、過去にも戻れたらと願った。

 車の前に飛び出した影が横切った。

「あっ、満子だ」背中を丸めて、伸びた前髪で顔を半分隠していたが、確かに満子だった。近所の噂では、化粧品会社の社長が、海外へ満子のサロン開店資金を持ち逃げし、満子は多額の借金を抱えたらしい。あのデザイナーズハウスのリビングは、サロン開店の為に買い込んだヨモギエステ用の椅子も、かなり大きな箱で、梱包されたまま足の踏み場もなかったそうだ。保証人にでもなっていたのだろうか、不似合いの家は売りに出され、満子の家族は夜逃げ同然に姿を消した。そんな小説の中だけの出来事は人事で章子の身に起こるなんて有り得なかった訳なのに、章子の身にも降って沸いた。

 章子の人生は、海に降る雪のように降っても、降っても、積もることがない。また、一からの始まりになる。悲しみも消え思い荷物が背中に覆いかぶさった。

 最後のカードを使うことが出来なかった。つや子は、ファンの一人と出かけていて家にはとうちゃんと、とうちゃんにそっくりな息子が残されていたが、今までにも好き勝手に旅行やゴルフにファンと出かけ歩いているつや子は、暫くするとひょっこり戻ってくるので、親のいない間に嵌めをはずして楽しんでいるような子供の留守番に見えた。

 もう行く所がない。運を天に任せ章子は斉木のアトリエに行って見た。電球のオレンジ色の灯りが窓のあちこちから漏れている。静かな夜で林の道を一歩進む度に落ち着いた気持ちを取り戻せた。

窓を覗くとコリノが胡蝶蘭と石膏のデッサンに油絵の具を乗せていた。コリノが振り向いて、にっこり笑い待っていたように手招きをしている。章子は、受け入れられてほっとし、渋い入口の戸を身体が入るくらい開けて頭を下げて滑り込んだ。最初からここに来る事になっていたと言い切れた。コリノは、コーヒーを煎れて章子に手渡し、籐のイスを部屋の隅から持って来て、「どうぞ」と差し出した。

 隙間風の入るアトリエは、花冷えの外と融合している。懐かしいダルマストーブの上にシチューを煮込んでいる鍋がかけてあり、時々鍋の蓋を開けてかき混ぜる。斉木は居なかった。健一が残した置手紙を見せたが、コリノは驚かず「そう」と言うと筆を洗い片付け始め章子に向き合った。

「大丈夫よ。放っておきなさい。自分の生き方を考える為に必要な時間だから。必ず帰ってくるわ」

コリノは、包容力のある全ての母の象徴に見えた。コリノが新聞の切り抜きを見せた。「この人の絵がすてきなのよ。残念ね。斉木先生の恩師で尾崎栄先生、知ってらっしゃる?」

「ええ、公園で見かけたことがあります」

「斉木先生は、お葬式の手伝いで出かけているのよ。私は、留守番よ」

コリノさんが留守番で良かったと言いたいのに、頷いただけで言葉がでなかった。章子は、理由もいらない、言い訳も聞かず、健一が帰ってきたら黙って受け入れようと決心した。

「またいらっしゃい」

とコリノに見送られた。ーつづくー

 結局、章子が家に着いた時には、優香も自分の部屋にいて、章子が風呂から上がり覗いた時にはもう眠っていた。健一もベッドの中でビールを飲みながらスポーツニュースを見ていて、こちらを見ようともしない。それが当り前で、誰もが無関心に生活している。いつからか、ただ寝る為だけの家に変わってしまった事を今日は寂しいと思った。仕事も充実してきて職場でも必要とされている実感も味わえる。多少自由になるお金を持つ事も出来た。そのお陰で、罪悪感を持つ事無く満子から高いクリームを買い、鏡の前で密かな喜びを持ち、主婦仲間とランチに行く。だけど、何か違う気がして、本当の自分の気持ちを誤魔化している思いが、微かに染みのように心に付いて消せなくなった。

 最近、斉木は、店によく手伝いにやって来た。気のせいか少し生き生きとしている。花にはすごい力があるから、これだけの花に囲まれていたら軽いうつ病ならすぐに治してしまえる。それは紅屋に勤めてから得た大きな収穫だ。章子も花に癒されているから、斉木の変化がよく理解できた。
「いたたた!あっ、血が出た!」
「このくらい何でもないよ」
社長は斉木にティッシュの箱を渡した。
「ほら、拭いておきな」
まるで子供扱いだった。ナイフで薔薇のとげをとっていたのだが、こんな様子を見ていると社長はただ斉木の絵が好きで応援しているだけで、男と女の関係ではない事が分かってきた。同士という感じだろうか、不思議と紅屋を尋ねてくる社長の知り合いは、皆少し時代がかっていて、かび臭いような、古めかしい屋根裏部屋にある埃を被った厚い本のような人ばかりだった。果林に言わせると、魂の年齢が古いということだった。

 斉木は、店が暇な時は、「千分の一セントラルパーク」でダボ、ラボと遊んでいる。社長の息子は自分の替わりがいてくれて、気に掛けなくて好きに出来るのを喜んでいる風に海外青年協力隊の説明会に出掛けたりしている。

 ある日、配達に出掛ける章子が公園の前を通り掛かったとき、斉木と立ち話をしている老人を見掛けた。斉木と同じ匂いがする老人は、鋭い目つきをした只者ではないオーラを出していた。
 夕方、公園で見掛けた老人の素性を問うと、かなり有名な画家「尾崎 栄」で確かに誰もが知っているかもしれない。軽井沢に彼の美術館が建てられている。章子は絵を見たことはない。斉木の話だと、幻想的で誰もが好む絵だという。

 早速インターネットで検索した。軽井沢の美術館は改築工事で休館になっている。落胆の気持ちと諦めきれない思いで検索していくと、尾崎栄の絵が桐生の小さな画廊に飾られているのが分かった。画面に現れた絵の不思議な空間に風が吹くのが見えた。共鳴という言葉が浮かんだ。

 仕事に出るようになってから、疎遠になっていたつや子に電話を入れた。つや子は、面倒くさいという理由から、携帯を持たないでいたので、簡単にメールで連絡が取り合えない不便さがあったが、深く相手の気持ちを感じながら、誤解も生じず話せる良さもありだとダイヤルプッシュした。どうしても、尾崎栄を見掛けた時のオーラを伝えたかったから、きっと、つや子なら同じことを感じられる仲間と思っていた。
 思いの一つも違わず伝わった。また、胸の真中に麻薬が注射されて体中に広がって行く気がした。深い喜びに震えた。
つや子が違う繋がりを尾崎と持っていたのだと後に知るようになるのだが・・・
 麻薬は一人だけの世界を作り、回りを見えなくしてしまった。それほど強烈な麻薬で、魂が共鳴し深い闇に引きずり込まれ身動き出来ない喜びを味わっていた。身体と魂が分離して、抜け殻の身体が家族の前に曝け出された。家族の気持ちを思いやる事も寂しいと感じた思いも跡形も無くなっていた。

 急速に、章子と斉木は近づいていった。しかし、それも男と女ではなく同志だ。配達の車の中で、大学での尾崎栄の授業の様子や斉木のアトリエの様子を聞く時間が嬉しかった。社長も斉木から貰うそんな時間を大切にしているのだな、中世的な斉木が、現実の世界ともう一つの世界を行き来する道案内人に見えた。斉木のアトリエの行ってみたいと言った。それは待っていた時間のように自然に実現した。

 「たぬきの通り道につき注意!」の立て札がある狭い舗装のされていない道を奥に入っていくと、確かにたぬきが住まいにしていそうな自然の林が現れた。その奥の方に古い木造の平屋が見える。斉木は、林の前に配達用の軽トラックを止めた。トラックの荷台から胡蝶蘭の鉢を下ろし、章子を促し林の中を歩いた。木造の家は近くで見ると人が住めるとは思えないほど古ぼけている。ガラスのはめてある木の戸は、簡単には開かない。
「先生!早く胡蝶蘭セットしてくださいよ。絵が進まなくて困ってしまうわ」
「おまたせしました。この辺りでいいかな」
斉木は石膏とバイオリンが置いてある机の真中に置いた。ここが、アトリエだったのか、その時気がついた。前の胡蝶蘭の花が終わってしまって茎と葉だけの姿で隅にやられていた。ここも埃っぽく、かび臭い古い魂を持っていた。生徒のコリノは五十過ぎで、ビーナス誕生のふっくらしたビーナスのようであり、また、スペインのフラメンコダンサーのようでもある。つや子と似ている空気を持っているがつや子は、暗い場所を好み人の後ろへと下がるが、コリノは、明るいライトを浴びて前に前に胸を突き出し、光と影の二人は対で一つの人間をなしている。当然、二人は面識もなく全ては章子の中での想像でしかないが、それが現実だと実感できた。

 つや子を連れてきて、コリノと会わせようとしたが、気乗りがしない様子で何かと理由を付けては断ってきた。その頃から、つや子は何か重たいものを抱えているようで、益々暗がりへ閉じこもりがちになっていった。 -つづくー
 健一が珍しく飲んで帰ってきた。機嫌がいいのだか悪いのだか。義母の病院に行ってくれる事を感謝したり、章子が短大を出ているからとおれを見下していると言ったり、仕事に行き出して龍一の仕送りが楽になった。と言っておいて、すぐに、やり手の女社長に良く似てきた、顔も・・とか言って鼻で笑ったり、全てが本音だろうが不愉快だ。スーツのままベッドに倒れて笑ったりフンと手を払ったりしているので、章子は、健一を放って龍一の部屋で寝た。社長は、犬に例えるとフレンチブルドッグで小さくて小太りの体型も似ている。それにパーマのかかったショートカットの髪を乗せて、マゼンタ色のセーターを着せれば、アメリカのホームドラマに出てくるハイカラなおばあちゃんのイメージがある。社長を思い浮かべながら、健一は章子に何か言いたい事があるのを誤魔化して嫌味を言っている、何が言いたいのか考えたらなかなか眠れなかった。

 その夜は、優香も帰って来なかった。朝起きてすぐに優香のベッドに座り、部屋中を見回しながら優香の携帯を鳴らしたが、すぐ留守電になってしまい繋がらなかった。連絡よこすようにメールを入れて朝食の用意を始めた。健一には、飲み会の後友人の家に泊ってくると連絡があったと言っておいたが、厳しさと無関心さを持ち合わせているからなのか、夕べの醜態が気まずいのか、新聞から顔を上げようとしない。章子は健一の気持ちを理解する事を放棄して仕事に出掛けた。

 優香からメールがきたのは、赤城山の麓の業者に、テラコッタの鉢を仕入れに行った帰りの車の中だった。自動販売機のホットレモンを買いに車から降り携帯を開けた。辺りは薄暗くなってきていて優香のことを忘れかけていたが、何の言い訳もなく今日は早く帰るというメールで、今頃急に、手ががくがくしてきた。良かった。最近物騒な事件も多いし、今日は章子も早く帰ろうと車を飛ばした。

 紅屋に着くと、社長が菊の花が入っているバケツを、冷蔵庫から重そうに引っ張り出していた。果林もソテツの大きな葉を水切りしている。
「何かあったの?」
「うん、突然、まぁ葬儀は大抵突然だけど、結婚式用のテラコッタのアレンジと重なったのよ」
果林は、社長のパニックを少し楽しんでいるように言った。
「だけど、息子は長野の花業者の視察とかに行っているし、大丈夫かな?」
「あれが、来るらしいよ。さっき電話していたから。運ぶくらい出来ると思うよ。」
果林はにやっと笑った。
早く帰ろうと思っていたが無理のようだ。章子は、仕入れてきたテラコッタの鉢にオアシスを詰め出した。小さいけれど、百鉢作るにはかなり時間がかかりそうだ。健一と優香に夕食を各自済ましてくれとメールを入れておいた。
 社長のくわえタバコで葬儀の花を活ける姿は、大胆で芸術的だ。小さい体が何倍にも大きく見える。
「そこの蘭が何本あるか、数えておいて!足りなかったら借りてこないとだから」
テキパキと指示もしている。
「あの、僕は何をしたらいいのでしょうか?」
のそっと現れた斉木が果林に問いかけた。すかさず社長が
「出来た花からバンに積んでもらうから、まだ座っていて」
いつもより強い口調に斉木も居心地悪そうに、椅子に腰を半分浮かしたように掛けていた。社長は斉木を気に掛けてちらちら見ていたが、
「テーブルの上にドーナッツの入った箱があるでしょ。開けて好きなものを食べていて」
と母親が子供に言うように言った。それでも、斉木は固まっていた。その姿は映画で
見た「戦場のピアニスト」の主人公のように見えた。   
何かに追われて怯えているようだ。
いつまでも章子も斉木を気に掛けていても仕方ない。自分の仕事に没頭した。活け込みが終わると、後は社長と斉木で積んでおくからと章子と果林は帰された。こんなに遅くなる事は殆どないが、主婦の仕事としてはやり過ぎの気もした。

 従業員の駐車場は店から少し離れた空き地で、そこに行く途中に公園がある。自然に伸びた大きな樹があちらこちらにあり、周りは夾竹桃が垣根のように植えてあり、その後ろに桜の樹が並んで植えてある。小さな森の向こう側を流れる広瀬川は、つや子の家の裏に繋がっている。その公園に「千分の一のセントラルパーク」と名前をつけて、仕事の行き帰りに公園の中を通り抜けるのを楽しみにしている。

 ダボとラボもその公園が大好きで、忙しくてかまってもらえないと誰にも気がつかれないように、二匹で公園に遊びに出掛けてしまう。そうすると必ずご近所の方が店に顔を出して二匹が公園で遊んでいる事を教えにくる。優しそうな言葉を使っているのだが口調は強く、子供に何かあると困るから、しっかり管理しておけと言わんばかりの態度なものだから、社長はいつまでも自分から、ご近所に溶け込まないところがある。
                             -つづくー
「私、花屋で働こうかな。ここに来る途中、紅屋が募集の張り紙出してあったのよ」
「いいじゃない。章子は本当はね、仕事向きだから。あそこの女社長は力があるね。章子、頑張ってみなさいよ。認めてもらえれば道が開けるよ」
いつも、とうちゃんを励ましているのと同じように章子にも断言した。

 早速、帰りに紅屋に寄って行く事にした。つや子は上手く行くように念力送ってあげるからねと言って見送ってくれた。
「こんにちは、 わっ!びっくりした!」
ゴールデンとラブラドールが章子に体当たりをしてきた。
「ごめんなさい!ダボちゃん、ラボちゃんハウスよ」
細くて小柄な二十代と思われる女の子は店の奥を指差した。長い髪の先がカールしたポニーテールが揺れてシャンプーの香りが心地よかった。ミニエプロンが似合っている。
「募集の張り紙見て来たのですが」
「ああ、社長呼びますね」
内線で呼ばれて女社長は、エレベーターで降りてきた。
ちらりと章子を見たが、社長に飛びついてきた二匹に夢中で、経歴も年齢も聞く事も無く、
「いつから来てくれる?」と聞いてきた。
「働いていないので、いつからでも大丈夫です」
「じゃ、来週から来て。あぁ八時半ね」
「はい・・分かりました。履歴書とか持ってきた方がいいですよね?」
「そうねえ、じゃあ一応持って来て。よろしく」
「よろしくお願いします」
呆気ないやり取りだったが、つや子が念力を送ってくれていると思うので、何の不安もなく当然の結果のように紅屋を後にした。家族も今まで章子が仕事に出ないでいた事に疑問を持っていたようで、やっと仕事に出る事にしたか。と言わんばかりの態度だった。

 仕事に出るようになり二ヶ月が過ぎ、街のあちこちに木蓮の白い大きな蕾が目につくようになる。龍一は国立大学に受からず、結局東京の私大に決まった。友人の下宿に居候しながらアパートを見つけるからと、三月半ばにさっさと家を出た。子供が大学生になって家を出て行くと、悲しくてどうしたらいいのかわからない。とよく聞いていたが、章子は肩の荷が下りてほっとした。あまり家の事を気にせず、仕事のことを考えられるのも嬉かった。

 今日も葬儀が入っているから忙しいな。八時半に紅屋に着いても、三階で寝泊まりしている社長はしばらく降りて来ない。ダボとラボが悪戯して散らかっている店の中を片付け始めると、歩きながら髪をポニーテールに束ね果林がやってきた。
「章子さん、いつもの黒より似合うよ、いいピンクだね」
果林が章子のセーターを誉めた。
「ありがと。ねぇ、今日二場所葬儀入っているから手分けしないとね」
鏡をみながらカールした長い髪を結い直している姿は、優香と変わらない娘のように思えた。そのせいか、大変な仕事は章子が進んで片付けた。社長も仕事が回れば問題なく、細かい事は気にもしない。確かにつや子が言ったように大物だ。章子は、日増しに紅屋に無くてはならない存在になっていた。二階のフラワーアレンジメントの教室にも仕事上通う事にした。金曜日の午後は、翌日の結婚式のテーブルに置く卓花を幾つも内職のように作り、四時までのパートのはずが七時を過ぎる事もあった。それでも今までにない充実した毎日に、益々、仕事が好きな女の顔になってきた。

 果林と二人で配達の車に乗ると章子の全てを知っているかのように話をしてくる。果林は、何か見えるらしい。章子の前世は花系だと言った。ヨーロッパの寒い方面で、いつか花と話しが出来るようになるからと言いながら、配達車のフロントガラスにタバコの煙を吹きかける。配達から帰って来た頃、辺りは薄暗くなってきていた。店の裏口にパンジーが植えてある。花を付けた細い茎がまるで人の身体のように揺れていて、「おかえり、お疲れ様」抱きしめられて囁かれた。後ろから果林が肩を叩いた。「ほらね」

 章子は、当たった宝くじ以上の自分の能力を確かめるかのように仕事をしたので、社長は私用も頼んで来るようになった。社長には若いヒモがいて、店から十分くらいの所に住んでいた。給料日になると、章子にヒモの給料袋を渡し、帰りに届けさせる。店の忙しい時だけ手伝いにくる息子の前では、母親の顔を作っていた。社長のヒモは、息子のいない時、ふらふらと店に来てダボとラボとじゃれている。社長が、コーヒーを二つ持って顎で二階を指すと二人はエレベーターでダボ、ラボを連れて上がった。下では仕事が立て込んでいてもヒモの斉木が来た時は、なかなか降りてこなかった。

 斉木は、芸大を出てフランスにも留学していた若手の画家で、ボサボサの長髪がいかにも芸術家の雰囲気を出している。斉木は、オールドローズのジュリアが好きで年中取り寄せていた。若い人に人気のジュリアは甘い香りで、斉木とすれ違うと同じ香りが漂う。
 今日も取り寄せた薔薇が、何種類か午前中のトラックで配送されて来た。それは、市場で仕入れてくる花とは別便で、結婚式のブーケや卓花に主に使われる。それを、斉木は取りに来たのだろう。

 紅屋にも、斉木の絵が飾ってあるが、オペラ座を描いたその絵は、ピンク、赤紫、青緑の混ざった幻想と夢の世界に、薔薇が二本描かれている。最初は何とも思わなかった絵が、毎日、毎日眺めているうちに、奥の深い重みのある絵に思えてきたのは斉木の掴みどころのない所からきているとも思えた。長身で痩せこけた姿は異常に見えた。今時、栄養失調の若者がいるとは思えないし、社長からの援助も受けているし、絵の個展での収入もあるだろう。しかし、その異常さは肉体と魂を売って作品を生み出しているかのようだった。斉木は孤独に耐えられなくてとか、暇だったからとか言う理由を感じさせて店には来たことがない。必ず取り寄せた花を取りに来る時だけ現れた。誰にも心を許さないし、見せようともしない強さを感じる。ーつづくー
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