「私、花屋で働こうかな。ここに来る途中、紅屋が募集の張り紙出してあったのよ」
「いいじゃない。章子は本当はね、仕事向きだから。あそこの女社長は力があるね。章子、頑張ってみなさいよ。認めてもらえれば道が開けるよ」
いつも、とうちゃんを励ましているのと同じように章子にも断言した。
早速、帰りに紅屋に寄って行く事にした。つや子は上手く行くように念力送ってあげるからねと言って見送ってくれた。
「こんにちは、 わっ!びっくりした!」
ゴールデンとラブラドールが章子に体当たりをしてきた。
「ごめんなさい!ダボちゃん、ラボちゃんハウスよ」
細くて小柄な二十代と思われる女の子は店の奥を指差した。長い髪の先がカールしたポニーテールが揺れてシャンプーの香りが心地よかった。ミニエプロンが似合っている。
「募集の張り紙見て来たのですが」
「ああ、社長呼びますね」
内線で呼ばれて女社長は、エレベーターで降りてきた。
ちらりと章子を見たが、社長に飛びついてきた二匹に夢中で、経歴も年齢も聞く事も無く、
「いつから来てくれる?」と聞いてきた。
「働いていないので、いつからでも大丈夫です」
「じゃ、来週から来て。あぁ八時半ね」
「はい・・分かりました。履歴書とか持ってきた方がいいですよね?」
「そうねえ、じゃあ一応持って来て。よろしく」
「よろしくお願いします」
呆気ないやり取りだったが、つや子が念力を送ってくれていると思うので、何の不安もなく当然の結果のように紅屋を後にした。家族も今まで章子が仕事に出ないでいた事に疑問を持っていたようで、やっと仕事に出る事にしたか。と言わんばかりの態度だった。
仕事に出るようになり二ヶ月が過ぎ、街のあちこちに木蓮の白い大きな蕾が目につくようになる。龍一は国立大学に受からず、結局東京の私大に決まった。友人の下宿に居候しながらアパートを見つけるからと、三月半ばにさっさと家を出た。子供が大学生になって家を出て行くと、悲しくてどうしたらいいのかわからない。とよく聞いていたが、章子は肩の荷が下りてほっとした。あまり家の事を気にせず、仕事のことを考えられるのも嬉かった。
今日も葬儀が入っているから忙しいな。八時半に紅屋に着いても、三階で寝泊まりしている社長はしばらく降りて来ない。ダボとラボが悪戯して散らかっている店の中を片付け始めると、歩きながら髪をポニーテールに束ね果林がやってきた。
「章子さん、いつもの黒より似合うよ、いいピンクだね」
果林が章子のセーターを誉めた。
「ありがと。ねぇ、今日二場所葬儀入っているから手分けしないとね」
鏡をみながらカールした長い髪を結い直している姿は、優香と変わらない娘のように思えた。そのせいか、大変な仕事は章子が進んで片付けた。社長も仕事が回れば問題なく、細かい事は気にもしない。確かにつや子が言ったように大物だ。章子は、日増しに紅屋に無くてはならない存在になっていた。二階のフラワーアレンジメントの教室にも仕事上通う事にした。金曜日の午後は、翌日の結婚式のテーブルに置く卓花を幾つも内職のように作り、四時までのパートのはずが七時を過ぎる事もあった。それでも今までにない充実した毎日に、益々、仕事が好きな女の顔になってきた。
果林と二人で配達の車に乗ると章子の全てを知っているかのように話をしてくる。果林は、何か見えるらしい。章子の前世は花系だと言った。ヨーロッパの寒い方面で、いつか花と話しが出来るようになるからと言いながら、配達車のフロントガラスにタバコの煙を吹きかける。配達から帰って来た頃、辺りは薄暗くなってきていた。店の裏口にパンジーが植えてある。花を付けた細い茎がまるで人の身体のように揺れていて、「おかえり、お疲れ様」抱きしめられて囁かれた。後ろから果林が肩を叩いた。「ほらね」
章子は、当たった宝くじ以上の自分の能力を確かめるかのように仕事をしたので、社長は私用も頼んで来るようになった。社長には若いヒモがいて、店から十分くらいの所に住んでいた。給料日になると、章子にヒモの給料袋を渡し、帰りに届けさせる。店の忙しい時だけ手伝いにくる息子の前では、母親の顔を作っていた。社長のヒモは、息子のいない時、ふらふらと店に来てダボとラボとじゃれている。社長が、コーヒーを二つ持って顎で二階を指すと二人はエレベーターでダボ、ラボを連れて上がった。下では仕事が立て込んでいてもヒモの斉木が来た時は、なかなか降りてこなかった。
斉木は、芸大を出てフランスにも留学していた若手の画家で、ボサボサの長髪がいかにも芸術家の雰囲気を出している。斉木は、オールドローズのジュリアが好きで年中取り寄せていた。若い人に人気のジュリアは甘い香りで、斉木とすれ違うと同じ香りが漂う。
今日も取り寄せた薔薇が、何種類か午前中のトラックで配送されて来た。それは、市場で仕入れてくる花とは別便で、結婚式のブーケや卓花に主に使われる。それを、斉木は取りに来たのだろう。
紅屋にも、斉木の絵が飾ってあるが、オペラ座を描いたその絵は、ピンク、赤紫、青緑の混ざった幻想と夢の世界に、薔薇が二本描かれている。最初は何とも思わなかった絵が、毎日、毎日眺めているうちに、奥の深い重みのある絵に思えてきたのは斉木の掴みどころのない所からきているとも思えた。長身で痩せこけた姿は異常に見えた。今時、栄養失調の若者がいるとは思えないし、社長からの援助も受けているし、絵の個展での収入もあるだろう。しかし、その異常さは肉体と魂を売って作品を生み出しているかのようだった。斉木は孤独に耐えられなくてとか、暇だったからとか言う理由を感じさせて店には来たことがない。必ず取り寄せた花を取りに来る時だけ現れた。誰にも心を許さないし、見せようともしない強さを感じる。ーつづくー