×
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
章子は、車に飲み物を持って乗り込むのを好んだ。陶器のフリーカップで飲む。少し遠出する時は、コーヒーをポットごと持って行く事もある。友人には変わっていると不思議がられるし、健一と車で出掛ける時は、「カップの中身を飲みきってから、乗ってくれ」と、はっきり拒否される。それでも、一人で出掛ける時は辞められない。
健一にとって車に乗るという事は、目的地に行く為だけの手段でしかないが、章子には、車はタイムマシーンのように、過去にも未来にも連れて行ってくれる物。ドアを閉めると心に浮かんだ事の空気、匂い、体温まで再現する事が出来る。章子は、リラックス出来る空間を作る為にもコーヒーや香りは必需品だと思う。
今のお気に入りはマジョラムの香りで、セラピストの友人の話だと孤独な心にやすらぎを与えるという。章子がマジョラムの小瓶に惹かれた時、「今のあなたに一番必要な香りよ。お風呂にいれたり、コットンに含ませて車の送風口に挟んで置いたりするといいわよ」その声は、手に取った小瓶が囁いたと思う。章子は強力なアイテムを手に入れた気分になっている。
側道の数少ない信号が赤になるのを、見落としそうになり慌ててブレーキを踏んだ。危ない、危ない。急に止まって後ろから追突されないかとバックミラーを見たが、後ろには車は一台も見当たらなかった。龍一が一緒だったら、「よそ見大王!」と言われたな。
ほっとして、横を見ると、いつも気になっている花屋「紅屋」の前にいた。
「あれ?」スタッフ募集の大きな張り紙がある。暗くて、お客を拒絶していてハリーポッターが住んでいるように見える花屋だった。二階まで外壁が古ぼけたレンガで、その上の三階部分だけコンクリートの打ちっぱなしになっている。蔦が建物を覆い隠すように絡まっている。入口にヨーロッパの店先でよく見掛ける看板がぶら下がっていて、オレンジ色のランプの形をした電灯がぼんやり点いている。
つや子の家の周りは、新しい住宅が増えて随分賑やかで、寂しい風が無くなっている。突き当りが土手で、サイクリングロードになっていて下は広瀬川が流れている。
萩原朔太郎の詩の「広瀬川白く・・」というのは本当だ、とつや子と土手を歩いた時気がついた。川は、確かに白かった。龍がくねくねと泳いで、鱗が陽の光に反射して白く輝いているように見えた。
つや子の家は、通りと土手の中間くらいにある。あまり大きくはないが、白い木造の二階家で、車が二台入るくらいの庭に垣根のようにユーカリの樹が植えてある。時々、ユーカリの枝をもらえるのは嬉しい。章子は、ユーカリの葉を指で擦りながら、枝を少し持ち上げその下を屈み込んでインターフォンを押す。
「開けてあるわよ」
中からつや子が叫んだ。
「いらっしゃい。鍵掛けておいてね」
キッチンにいるようだ。
「むさしやのロールケーキ買ってきたよ」
「じゃあ、紅茶がいいね」
部屋は、セピア色の写真のようで、家具はアンティークで、壁一面の造り付の本棚は沢山の本で溢れている。真紅の緞帳のようなカーテンを閉めて、ステンドガラスのカバーの付いた背の丈くらいのスタンドをつける。フジコ・ヘンミングのラ・カンパネラのCDが流れ、革張りのソファに寄り掛かり床に直接座ると、ふと肩の力が抜け胸の真中に麻薬を注射される。麻薬は、身体中にじわじわと広がっていき胸が熱くなる。涙が込み上げてきて突然我にかえる。
幸せって何だろう。誰もが迷わず生きているのだろうか。生き方がわからない・・行く道が見えない。深く考えないで見ないふりがここにいると出来なくなる。二人は紅茶を飲みながら、それぞれがノクターンの曲の中でワルツを踊る前世の影を見ていた。
ーつづくー